合理化の時代
先週末の連休の最中、父方の婆ちゃんが亡くなった。
明治天皇の額を飾り、質素倹約と貯蓄の達人だった婆ちゃんは生前、「葬式なんか出すのはお金がもったいない。」と言っていたらしい。
だが、親や親戚達からすると、葬式くらいは出さないと気が済まない。そこで・・・なのか、最近の傾向なのか、葬式は合理的、かつスピーディーに執り行われた。
親や伯父、叔母たちは、最期の時に近くにいてあげられたからなのか、まだ遺体が残っているからなのか、あるいは集まった人たちに気を使っているからなのか、至って冷静だ。通夜が終わると、棺を囲んで婆ちゃんの思い出話、人生論、孫たちの結婚話で盛り上がりながら飲み明かした。
明くる日は、遠方から来る人や仕事のある人に配慮して、初七日の法要も繰り上げて、葬式の後に続けて済ませた。
実は人生初めての身内の葬式。遺影には見覚えのある婆ちゃんの笑顔。棺の中にいるのは確かに婆ちゃんだが、遺体保存技術*の進化のおかげで血色の良い顔をしていて、今にも起きだしてきそうだ。とても実感が涌かない。
そして、葬儀会場。通夜の晩の着替えの浴衣や風呂、洗面用具や酒までなんでも揃い、至れり尽せりだが、よく見ていると、必要な時に必要な係が来るだけで、少人数で極めて合理的に動いている。棺を担ぐのにしても、自分のような体力バカの孫ができる最期のお婆ちゃん孝行として、見事に儀式の流れに組み込まれている。
だが、棺に遺品や六文銭を入れて花で埋め尽くす時、そして、火葬場で遺体と最後のお別れをする時だけは、血の繋がっている人間のほとんどが目を真っ赤にして泣いていた。もう、二度と顔を見ることはできない。次に対面する時には骨だけになっているのだ。それを考えると、かなりキツいものがある・・・。厳格でいつも冷静な親父だって、所詮は人の子。
結局、他の儀式は故人の人生の終わりの節目をハッキリさせるための形式的な意味あいが強く、本当の人間らしいお別れの儀式というのは、遺体とのお別れの瞬間にほとんどが凝縮されているものだと思った。
合理的な考えを好み、コツコツ貯めたお金で孫9人全員に莫大な結婚資金をプレゼントしてくれた優しい婆ちゃん。そんな婆ちゃんを昔は仙人のように思っていた。
だが、日記を見てみると、そんな婆ちゃんの人間らしい部分が垣間見え、孫や子供が会いに来た時にいかに喜んでいたかがよく分かった。
やべ・・・俺、婆ちゃんと何年会ってなかったっけ?
合理的に行動するのは大事だ。そして、極端な話、親戚に会わなくても別に死にはしない。でも、人間とつきあっていく以上、人間の心は無視できない。
父方の婆ちゃんはもう手遅れだが・・・せめて残った親兄弟や親戚は大事にしようと思った。たとえ、いつ、何が起こっても後悔しないように。
*遺体保存技術
今は、遺体の血を抜いて防腐剤入りの血を入れることで、まるで生きているかのような状態のまま一ヶ月以上保存できる方法があるそうな。エンバーミングとも言うらしい。
3 Comments to “合理化の時代”
この投稿へのコメントの RSS フィード。 TrackBack URI
By もひょ, 2006/01/15 @ 00:00
この度は大変お悔やみ申しあげます。並びに
故人のご冥福をお祈り致します。
長いのでレスは自分のとこに書きました。
By かず@, 2006/01/15 @ 00:01
まずは、謹んでお悔やみ申し上げるとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
>せめて残った親兄弟や親戚は大事にしようと思った
俺もそうだったけど、大体後になって後悔するんだよね・・・
俺のところはもう父方の爺ちゃんしかいないけど、
今度会いにいってくるかな
By 杉蔵, 2006/01/16 @ 00:00
>もひょ
>かず@
ありがとう・・・
まぁ、歳取ってる人はいつ、何が起こるか分からんわけで・・・
後悔しないためには、常に、ひょっとしたら二度と会えないかも知れないってことを考えて接するしかないのかな・・・